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製造のアメリカンシステム
製造のアメリカンシステムは、19世紀に進化した一連の製造方式です。互換性部品の広範な使用と生産における機械化という2つの注目すべき特徴があります。その結果、手作業に比べて労働力の効率が向上しました。この生産方式は初期にマサチューセッツ州のスプリングフィールド工廠やバージニア州(後のウェストバージニア州)のハーパーズフェリー工廠、米国陸軍に納入する社内請負業者、さまざまな私設兵器工場などで開発・導入されたため、工廠方式(armory practice)とも呼ばれていました。「アメリカンシステム」という名前はアメリカの国民性に特有のものではありません。19世紀の一時期に、このシステムを初期に成立させたアメリカ企業と、当時の英国やヨーロッパ大陸の企業の手法とが対照的であるという単純な事実に由来します。1850年代に、「アメリカンシステム」は前世紀の間に進化しつづけた英国の工場システムと対比されました。その後数十年以内に製造技術はさらに進化し、「アメリカン」システムの背後にあるアイデアが世界的に用いられるようになりました。従って、今日の製造業ではその方式は世界的なものであり、もはやそのような区別はありません。
アメリカンシステムでは、工作機械や治具を利用する半熟練労働者が、標準化された、同一の互換性部品を製造します。公差の範囲内で製造され、最小の時間と技能で組み立てを行えます。また、調整はほとんど、もしくはまったく必要としませんでした。
部品は互換性があるので、製造から組み立てや修理を分離可能で、それは分業の一例です。これはすなわち、サプライチェーンの上流の小規模工場群での製造、本社工場の組み立てラインでの組み立て、小規模な専門店または現場での修理、これら全てが半熟練労働者によって実行できることを意味します。その結果、より多くのモノを、より安く、そして高品質に作れるようになりました。また、修理がより安く簡単になったため、それらのモノはより広く流通し、より長く使えるようになりました。これらの仕組みは通常、手工具を専用の機械に置き換えます。
部品の互換性は、主に繊維機械を作るために開発された機械加工と工作機械のいくつかの発明や改善を組み合わせることによって達成されました。それらの発明には例えば、新しい工作機械と治具(どちらも、切削工具をガイドするためのもの)や、加工物を適切な位置に固定するための器具、そして完成品の精度を検査するためのブロックやゲージなどがあります。
機械の使用
英国の工作機械製造者、ジョセフ・ホイットワースはニューヨーク国際展示会の英国コミッショナーに任命された。別のイギリスの委員に同行して、彼はいくつかの州を巡り、さまざまな製造業者を訪問した結果、アメリカの製造業に関する非常に影響力のある報告書を発表しました。彼はその報告書から以下のように述べました。
労働者階級の人数は比較的少ないですが、その分、産業のあらゆる分野において、熱心に機械の利用が進められています。機械が肉体労働の代わりになるなら、どこでも普遍的に、喜んで利用されています… 優れた教育と知性のもとで、そのような労働市場の状態と、可能ならどこでも熱心に機械を頼る状況が生じたことが、米国に著しい繁栄がもたらされた理由です。
ジョセフ・ホイットワース、1854年
歴史
18世紀後半、フランスのグリボーバル将軍は、マスケット銃を交換可能な部品で作れば、より早く、より経済的に製造できることを提案しました。この仕組みは戦場での修理を容易になります。彼はオノレ・ブランを後援し、このグリボーバル方式の導入を試みましたが、成功することはありませんでした。それまでの英国が生み出した工場システムでは、設計図から部品を作るには熟練した機械工が必要でした。しかし、どんなに熟練した機械工でも、部品が同一であることはなく、それぞれの部品は対応する部品に合わせて、個別に調整されなければなりませんでした。
互換性部品を用いた大量生産は、1803年にマーク・イザムバード・ブルネルが、ポーツマス造船所の海軍工事監察官サミュエル・ベンサム准将の下で、ヘンリー・モーズレイ、サイモン・グッドリッチと協力して初めて達成され、その結果、1808年には年間13万個の滑車が生産されました。この方式は何十年間もの間、英国の一般的な製造業では普及せず、普及したときにはアメリカから輸入されることとなり、イギリス発祥であるにもかかわらず、製造のアメリカンシステムと呼ばれるようになりました。
19世紀初頭に、労働力の調達や訓練、住宅や生活必需品の提供、集約化された工場や複合施設での半自動化された機械の使用などを重視したシステムとして、ウォルサム・ローウェルシステムがありました。
グリボーバルの発想は、2つのルートでアメリカに伝わりました。まず1つ目は、ブランの友人であるトマス・ジェファーソンはブランの回顧録と彼の仕事を記した書類のコピーを陸軍長官ヘンリー・ノックスに送りました。2つ目に、砲兵将校ルイ・ド・トゥサール(彼はラファイエットの指揮下でした)はグリボーバルの思想に傾倒していました。彼はアメリカ独立後に影響力のある2つの文書を執筆し、1つはウェストポイント(米国陸軍士官学校のこと)の青写真として、もう一つは将校の訓練マニュアルとして使われました。
陸軍省は、ウェストポイントでトゥサードのマニュアルに基づいて訓練された将校を含めて、スプリングフィールドとハーパーズフェリーに造兵廠を設立し、互換性の問題を解決することを任務としました。この課題は1820年代にようやく達成されました。歴史家のデイヴィッド・A・ハウンシェルはこれをハーパーズフェリーの内部請負業者であるジョン・H・ホール大尉が行ったと考えています。1822年の手紙の中で、ホール大尉はこの年に互換性を達成したと主張しています。しかし歴史家のダイアナ・ミューアは、アメリカ軍向けに銃を製造するコネチカット州の兵器請負業者シメオン・ノースが行った可能性がより高いと論じています。ノースは1816年に重要なフライス盤の発明を行っており、大量生産された交換可能な部品から複雑な機械を大量生産した最初の産業、コネチカット州の時計製造業者と密接に協力していたという点でホール大尉よりも有利でした。1815年までに、互換性の考え方はアメリカ政府の調達システムにおいて十分に確立されており、議会の契約によって、この年以降に発注されたマスケット、ライフル、ピストルに部品間の互換性が要求されました。アメリカの造兵廠における銃器部品の互換性は、1853年のイギリス議会委員会の小型武器に関する調査の時点で数年間使用されていたことが判明していました。
互換性のある金属部品を作るうえで重要だったのは、スライドレスト旋盤、ねじ切り旋盤、タレット旋盤、フライス盤、金属プレーナーといった、いくつかの工作機械の発明でした。これらの工作機械のうち、最も汎用的で重要性が高いものの一つが、デイヴィッド・ウィルキンソンの旋盤であり、彼はこの旋盤の発明で米国政府から1万ドルの賞金を受け取りました。
一般には、イーライ・ホイットニーが考案し、実用化したとされていますが、どちらも誤りです。綿繰り機の発明者としての名声から、米国政府は1798年に、2年以内に1万丁のマスケット銃を製造する契約を結びました。しかし、ホイットニーは新しい技術や機械を開発・完成させるのに時間がかかり、実際に納品するには8年かかりました。ホイットニーは、財務長官オリバー・ウェルコットに宛てた遅延を詫びる手紙の中で、こう書いています。
私の主要な目的の一つは、道具自体が部品を作り、すべての部品を最適な寸法にするような道具を製作することです。要するに、私が考えている道具は銅板に彫刻をするようなもので、その銅板から完全に同様の物を数多く型取ることができます。
ホイットニーは機械を使用していましたが、新しいタイプの金属加工機械を製造した形跡はありません。最初の契約を終えたホイットニーは、その後2年間さらに1万5千丁のマスケット銃を製造しました。ホイットニーは1800年に財務長官ウォルコットがブランの回顧録に言及するまで互換性に関心を示すことはなく、互換性の実現よりも普及・宣伝に多くの時間と労力を費やしました。
製造技術の知識を広めるため、陸軍省はほかの製造業者や競合他社に請負業者の工房を公開しました。造兵廠は、製造技術を民間企業と公然と共有しました。さらに、造兵廠のシステムで訓練された機械工がほかのメーカーに雇われることで、そのアイデアは造兵廠から産業界へ移行していきました。こうして、熟練した技術者や機械工は、1860年以前に互換性部品を使用していたアメリカの時計メーカーやミシンメーカーのウィルコックスやギブス、ウィーラーやウィルソンに影響を与えました。遅れて互換性が採用された事例には、シンガー社のミシン(1870年代)、刈り取り機メーカーのマコーミックハーベスティングマシン社(1870年代~80年代)、コーリス社(1880年代半ば)などいくつかの大手蒸気機関メーカーや機関車メーカーなどがあります。また、1880年代の大規模な自転車生産では、互換性が採用されました。
このアイデアは、1901年にランサム・E・オールズがカーブドダッシュという自動車を大量生産し、アメリカ製造業の”黄金時代”に繋がりました。ヘンリー・フォードは1913年に自動車の量産を開始しました。フォード工場は、組み立てラインでの真の互換性をマスターし、標準モデルの自動車を生産しました。こうした効率的な生産戦略により、自動車は中流階級にも手の届くものになりました。
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